私は研究者として研究室を持つのでもなければ、技術者として起業するようなネタもない、ごく平凡な理系修士卒である。
高校時代、「発明で世界を変えたい」とか、「ノーベル賞を取りたい」とかをぼんやり夢想して理系を選んだ。しかし大学+大学院の6年間で、研究者として大成するには学問にも技術にも愛がなさすぎると痛感した。大学には「小学生の頃からこの学問が好きでした」みたいな連中がゴロゴロしていたのだ。
とはいえ、その6年を過ぎても、技術が世界を変えるという、技術への信頼はあった。
大学院を卒業した2000年代中盤、「私以外にできない仕事がしたい」と、ある化学メーカーに入社した。「私以外にできない仕事がしたい」とは、「技術で世界を変えたい」だった。
かくして企業研究員となった私だが、結局は「技術で世界を変える」を諦めた。その経緯を書き記したい。
■ まずは配属
入社直後の研修中、人事部は私にこう言った。
「基礎研究所が向いていると思うけど、どう?」
これに対して大学院上がりたての語彙が少ない24歳理系には、「勘弁してください」以外の言葉がなかった。人事面談で出すフレーズではないが、とにかく「違う」と伝えたかった。
改めていま、「勘弁してください」をビジネス会話らしくブレークダウンすると、
- 私の価値観では基礎研究は大学で成すものなので、企業に入社してまでする意味がない
- そもそも私は技術の事業化に関心が高い
- 基礎研究所といえど企業である以上は事業化を目的としているのだが、私は、経営も基礎研究所志望の同期も、そのモチベーションが薄いとみなしている
となる。
今はなんとでも言えるとはいえ、当時はいい言葉が浮かばなかった上、場面は配属に向けた人事面談である。基礎研究所を勧められている状況で「勘弁してください」だけでは軌道修正できない。24歳なりに工夫して、「技術営業もできる仕事がしたいです」と伝えた。
一方、私のような新卒社員に対し、人事部は毎年、100人単位の22歳だの24歳だのを相手にする。言語化スキルが未成熟の若者の発言を無数に浴びればうんざりもするし、発言の真意などいちいち取り合えないのだろう。彼らは「基礎研究所に向いている」と判定したはずの新入社員を、B2B最前線の研究所に配属した。
そこでの私の仕事はというと、技術営業というより、顧客(企業)との技術ディスカッションをこなし、適した薬剤を研究し、調剤する、そんな感じである。
おそらく「技術営業」とはなんなのか、人事部はわかっていなかったと思う。顧客と会える研究員、くらいの認識であろう。
かくして、私が社会人として最初に当たった壁は「研究職としての壁」だった。
■ 現実の壁@研究職(1)「シナジー」思考停止の実態
人事が決めるのは100人単位の「部門」への配属。次に部門のマネジメントが、数十人単位の「課」への配属を決める。私は前述の通り「技術が世界を変える」と期待していた。そのため、仕事の型が決まっていて物事をコツコツ進めるような課に異様な拒否感を示した。結果として、新規商品を開発する課に配属された。
その課は、M&A(企業買収)した子会社とのシナジーを求められていた。とても新規事業らしい話である。私が最も忌避していたのは、オジサンが「オレの背中を見て学べ」と幅を利かせている状態であったから、若手からベテランまで等しく右往左往するようなその状況に満足していた。
だがこの満足、2週間もたたないうちに打ち砕かれた。
元凶は、「うちの技術が盗まれる」現象である。
M&Aしたのは海外の会社だった。そことうかつに情報交換などしようものなら、弊社の技術が盗まれて悪用されるという発想だ。日本人あるあるである。部長がその考えに取り憑かれており、私が夢想していた「グローバルメンバーと紆余曲折しながら、超絶新しい技術を使いこなし圧倒的にヤバい商品を作り上げる」なんて奇跡は起こりようがなかった。
まずこれが、大学院を出たての私が出会った現実の壁である。言ってることとやってることが違う。大人が構成する社会でそんなことは起きないと思っていたが、社会はそんなことだらけだと知る一歩だった。
余談だが、メーカーを去った後にも何度か、経営層が自社の社員に「シナジー」を期待しているシーンに出くわしている。そのうち一部は、お金や人を投じていた。しかし中間管理職がガチ抵抗して物事を全て止めているこの現象、どれくらい経営に把握されているのだろうか?と不安に思う。私が見たあれも、おそらく経営層への報告では「鋭意シナジー中」と伝えていたと思うのだ。
■ 現実の壁@研究職(2) 事業化プロセスがない
2年目からは新しい薬剤を一人で開発させてもらうことになった。これは一見エース扱いのようだが、内実はそんな華々しい話ではない。私がシナジー問題でモヤモヤしすぎた結果企業内コミュ障に陥ったので、一人で完結できるテーマを与えて様子を見よう、といったところだったと思う。
これが大成功だった。(社内評価基準上では)
しかし。
しかしである。このまま上手く行っていたらここにこんな記事を投稿していない。
先ほどこう書いた。
これが大成功だった。(社内評価基準上では)
(社内評価基準上では)←
重要なのはここである。
社内で評価される手順で物事を進めたら事業化できるわけではなかった。
これには困った。事業化は長い道のりだから、すぐできないのはわかる。だが、どうもそういうことではなかった。
評価基準に合わせて物事を進めても事業化に近づかないのだった。
では何か変えなくてはならない。しかしそれが何なのかわからない。わかっている人もいそうにない。どこにも書いていない。預ける背中もない。詰みである。
この頃、「諦めるな」「当事者意識が足りない」とよく言われた。
それは「実験をたくさんやれ」「データを取り続けろ」(一生懸命な態度だと尚良い)ということだったりした。しかし私は気が進まなかった。ある時点からずっと、今は性能評価データを取るフェーズではないような気がしていたのだ。商品の企画・根本設計がそもそも間違っている気配がしていた。然りとて何を確認し、誰に何を伝えれば良いのかもわからない。
研究所には、この課題感を話せる相手も、話せる雰囲気もなかった。
10年以上経ったいま振り返れば、「研究」のプロセスはあったものの、「商品化」「事業化」のプロセスがなかったのだと思う。なので常に、技術の成立性確認で話が止まってしまう(※)。数十年受け継がれる由緒正しき製品群なら事業部や生産技術部門が後始末をしてくれるのだろうが、社内で新興の我が課ではそこが完全に抜け落ちていた。グレーゾーンではなく、完全にブラックゾーンである。
※プロセスのくだりは図などで丁寧に説明したほうがいいように思うが、都合により省く。描くのに1ヶ月かかりそうだから。いつか別の記事にしたい。
■ 現実の壁@研究職(3) 周りが私を扱いかねる
ここまで組織の問題点ばかり書いてきてフェアではないので、「私」という「研究者」「新入社員」「若手社員」がどうだったかも書き記す。
配属直後に新人らしく「何がしたいか」などを書き、提出した。ここでいきなりつまづいた。上司の反応が、
「理系が割を食ってるってどういう意味?」
だったのだ。
というのも、「技術の事業化」を言語化できないでいた新卒の私は、「日本社会は理系が割を喰っているのが課題」と主張していた。ノーベル賞受賞者である中村修二氏の発言を拝借したのである。24歳の私からすると、
「どういう意味isどういう意味?あの有名な中村氏が散々言っているではないか????」
…だったんだけど、これまた語彙力がない若造には答えかねた。語彙力がないなら中村氏の発言を引用すればいいのに、その発想もなかった。結果的に「どういう意味?」は「それ以上タブーに触れるんじゃない」に聞こえてしまった。
以降私は、「世界に貢献したい」など、より主語がでかい方向に走った。これで一層周りを困らせることになった。主語をデカくすると、「アフリカ行って学校作りたいのでは?」という感想を抱かせてしまうのだ。もっとストレートに言えば、「なんでここ(研究所)にいるの?」である。
■ 現実の壁@研究員(4)周囲と照準が違う
中堅の課長クラスが私を扱いかねる中、部長〜役員クラスの人は時に私を目にかけ、自身の仕事観を語ってくれた。何を思ってどういう行動をしてきたか、という経験談は、経験が圧倒的に足りない私にはとても勉強になった。
しかし。
ここでまた、しかし…なのである。それに完全に感銘できればここにこんなことを書かずに、今でも諸先輩方の背中を追いかけていたと思う。
どうしても引っかかる発言が2つあった。
1つ目は、「先輩に勝つという気概が足りない」である。
言語化できていないものの「技術が世界を変える」が照準だった私の目に、「先輩に勝つ」はあまりに狭量に映った。謙って言えば「先輩は世界を変える仲間であって勝負の相手ではない」だし、傲慢に言えば「先輩に負けるなど考えたこともない」である。
2つ目は、「好きなことをやってお金をもらえる」である。
これは理系、その中でも化学系・生物系の研究者に多いと感じる。大学の研究室は無償だが好きなことをさせてもらえ、企業の研究所ではそれを有償でやらせてもらえる!という主張だ。一方で私は、研究・実験を労働と捉えていた。そしてその労働が、好きか嫌いかで言えば嫌いだった。技術を極めるプロセスはどうでもよく、世界を変えるポテンシャルにしか興味がなかった。大学に「学問が好き」「研究が好き」「実験が好き」という人間はたくさんいた。そうした人は学科を慎重に選び、研究室を慎重に選び、順調に論文を産出し、アカデミアのポストを手にしていた。だから、「好き」派の人間が企業にもいるとは、全く想定していなかった。
企業に来る人は皆、「技術を事業にして世界を変えたい」派閥だと思っていたのだ。
こうした状況の積み重ねで、わかってきてしまった。上司・同僚は誰も、「技術を事業化して」「世界を変えたい」などと思っていない、ということが。
■ 試行錯誤と異動
3年目(26歳)の私は、転職または異動を考え始めた。
狙いは変わらず「技術の事業化」なのだが、語彙力も貧弱なままである。会社に希望を伝える際、「マーケティング」とか「戦略」とかいったバズワードを駆使していた。間違ってはいないのだが、「技術の事業化をやりたい人間」が少数なのに対し「対象は何でもいいからマーケティングか戦略をやりたい人間」は世間に大量にいる。自分でも自分の特殊志向と世間の一般志向の違いがわかっておらず、これが誤解と迷走を相当数引き起こすことになった。
とはいえ、「マーケティング」と名のつく技術営業&製品戦略立案の課と、「戦略」と名のつく営業戦略立案の課に異動ができた。
さっくり書いたが、異動まで2年以上の試行錯誤があった。その間、対処が全くできずに困った質問が2つある。いずれも上司(研究所の課長や部長)から言われたものだ。
まずこれである。
「マーケティングは技術を10年20年やってからやるものだよ」
2年目(25歳)の、キャリアの浅い私には返す言葉がなかった。ただし、今なら秒で食い気味に返せる。
その返答とは、
「マーケティングを舐めてません?」
である。
困った質問の2つ目はこちら。
「戦略をやれば満足なの?」
これも当時は困ったが、今ならちょっと考えたフリをしたのちにこう返す。
「やらないとわかりません」
まあこれらは「そういうことじゃねえ」という意見もあろう。だからお前は企業内コミュ障なんだと言われたら、その通りですとしか言いようがない。私とて30代も後半になると、薄ら笑いで「こいつわかってねーな、痛い目見て成長しろよ」とやり過ごしてしまう中間管理職の気持ちもわかる。というか、99%話が通じそうにもない相手(私)によくツッコむ気になったなと、畏怖の念すら感じる。
しかしこの点においては、互いに「マーケティングをやる」「戦略をやる」ことにマジで全くイメージがない状態で話していたのが一番致命的だったように思う。マーケティングと戦略の「定義」ならググれば出てくるんだけどね。
ともあれ、誰も幸せになれない面談や議論を経て紆余曲折、晴れて研究職から企画職に移った私だが、ここでも壁はあった。
■ 現実の壁@企画職(1)目標を立てない戦略
私は「営業技術」(研究員としてではなく)と「各種戦略立案」を兼任していた。営業技術については割愛する。「各種戦略立案」これが曲者だった。
戦略にも色々あるが、私が手がけたのは
- 製品A群の製品戦略
- 営業戦略(日本市場)
- 製品・営業戦略(製品A群xアジア)
少なくとも多くの人が「戦略をやりたい」で想像する「事業戦略」「経営戦略」ではなかった。製品A群を一つの「事業」と見立てれば製品戦略も事業戦略の一種だが、製品A群は人も設備も雑費も他の製品群と共有していたので、やはり事業戦略とまでは言えないと思う。
私は前述の通り「題材は何でもいいから(経営)戦略をやりたい」派閥ではなかったので、製品戦略が中心のこの座組には納得していた。
しかし。
3つ目のしかしである。
戦略は市場調査やデータ分析ではない。大量のpptを作ることでも、BIツールを駆使してダッシュボードを作ることでもない。そもそも元は軍事用語である。戦略とは、何かの「目標」と「手段」のセットだ。
目標とは、売上や利益の目標値だったりする。それは長期計画、中期計画、年度計画に記されている。つまりよくよく考えると、(主体的に)戦略を立てるとは、組織の長がやることなのだ。少なくともほとんどの日本の企業ではそうなっている。
私はアラサーの若造だった。今をときめくスタートアップならベテランかもしれないが、一般的な日本の大企業においては断然若造だった。
戦略を決めるのは営業課長、マーケティング課の課長、それらを束ねる部長、さらには事業部長。私はこの前提で「戦略」を扱うことになった。まずは目標がなければ始まらない。が、それを決めるのは私ではない。そして、すんなりと妥当な目標設定ができるなら戦略立案担当なんて不要である。
かくして私は、目標の立て方を説明してまわるなど…思い描いていた「戦略をやる」とは程遠い事態にハマっていった。
■ 現実の壁@企画職(2)プロがいるのに一人で何やってるんだろう?
目標問題はあったが、分析自体は楽しかった。分析といっても市場分析なんてカッコいいものではなく、自社のトレンド分析である。私がいた会社に限らず、売上・コスト・利益の5年推移・10年推移などは意外と整理・分析されていない。少し過去データをいじれば、「〇〇製品は我が事業部の主力と思ってたのに利益は全然出てない。どころか、見ようによっては赤字」とか、そんな事態がわんさか発掘された。
私の役目は、それを分かりやすくまとめ、部門の皆に事実を認知してもらい、改善のアクションを起こしてもらうことだった。
そのためには、ただの分析ではなく改善の方向性を示唆しなければならない。しかし新卒以来ずっと企業内コミュ障なのと、アラサーの若造が進言するには踏み込みすぎな内容があったりで、社内で幅を利かせる人にキレられることもあった。もっとシャープな分析や提言で説得するか、または、自力で分析の先に進みたかった。そうして、分析〜戦略立案を専門でやる人が世の中にはたくさんいるはずなのに、方法から手探りで、フェアなレビュアーも協力者もほとんどおらず、1人で遅々たる歩みを刻んでいることに疑問が芽生えてしまった。
分かりやすい分析結果の提示。これができることを社内で評価されていた。しかし私には「技術で世界を変える」マインドが無意識セットされているので、「この会社の中ではよくやっている」では到底満足しようがなかったのだ。「世界を変える」を遅くとも50代に巻き起こさねばと考えると、自らの発言力が増すまでじっくりと10年20年待つことも、選択肢になかった。
(なお古巣の名誉のためしつこく補足しておくと、分析してみたら赤字だった的現象は、割とどこにでもある。私がいた組織が特別おかしいのではない。)
■ 現実の壁@企画職(3)新規事業立ち上げプロジェクト
そして、新規事業立ち上げプロジェクト!
新規事業!立ち上げ!プロジェクト!
これは突然ミュージカル調になってしまうくらい、今振り返ればマジで非常にいいチャンスだった。だからこそ、これが致命的な退職トリガーになった。
コンサルティング会社を呼んで新しい事業を企画しようというプロジェクトだった。
この件はどこまで書いていいのか判断がつかない。そのためほとんど割愛するが、シーズオリエンテッドとニーズオリエンテッドの双方から攻め、現実的な交点を作ろうとしていた。と思う。が、肝心のプレイヤー(化学メーカー側の参加者)が、自分の安全ポジションからまんじりとも動きたがらない。プレイヤーの一人である私も技術そのものに思い入れがないので、役割期待である「ニーズ動向や技術動向を聞いて、当てはまる技術を思いつく」が全くできない。
限界だ、と思った。
私は、この会社では、「技術の事業化」について何もできない。
私がいたのは、当時(2014年)も今(2020年)も、経営変革・多角化大成功で有名な会社である。古い事業、古い技術に固執しないランキングでも作れば10位以内に入るだろう。その会社でこれでは、他社に転職しても同じだと考えた。
■結論としての転職
壁に当たり試行錯誤しまた壁に当たった結果、私はメーカー社員の立場から降りることにした。メーカーで「技術で世界を変える」は無理だと判断したのだ。
内容でお気付きの方もいると思うが、私の直近のキャリアはコンサルである。前述の、「分析〜戦略立案のプロがいるのに1人で何やってるんだろう…」から、プロ集団に身を置くことにしたのだ。
時折「メーカーに戻って自分でやりたくならない?」と聞かれるが、それは全くない。
メーカーの研究職。技術営業。営業。戦略立案。
少なくとも私のマインドとスキルレベルでは、あれは「自分で(事業を)やる」になっていなかったし、いま戻ってもその点は変わらないと思う。
しかし、「技術で世界を変える」は諦めていない。
一体どうすれば良いのかは、次回以降に書きたい。